『お見舞い申し上げます』
令和六年、能登半島地震により被災された方々には心よりお見舞い申し上げますとともに、一日でも早く日常の生活がお戻りになられますことをお念じ申し上げます。
いうまでもなく、天災が日を選ぶことはない、と思っていても、まさか元日早々に、あのような巨大地震が北陸を襲うとは夢にも思いませんでした。
恐らく皆さまもテレビ・ラジオに釘付けになっていたことでしょう。
また、休む間もない余震の連続、被災者の方々には筆舌に尽くしがたい不安と悲しみであったろうと思います。
被災者の方々には筆舌に尽くしがたい不安と悲しみであったろうと思います。
周知の通り、私たち真宗三門徒派本山専照寺は、福井市にあります。
今回の地震では、灯篭や仏具が倒れたりといった被害はありましたが、大事には至りませんでした。
しかしながら、あの大きな木造建築の本堂が、龍の如くうごめいていたそうです。
そう考えると、能登半島の地震の揺れは、想像を絶するものだと思います。(地震のエネルギーは阪神淡路大震災の2倍だそうです)
遠方に住む者にとっては、為す術もなくその全容にただ傍観しているだけで、人間の無力さを知らされるだけです。
特に輪島を襲った広大な火災は、まるで空襲を受けたかのように焼け焦げて跡形もなくなっていました。
その光景を見て、阪神淡路大震災の時の神戸市長田区の大火災を思い出しました。
当時私は、まだ学生で京都にいました。亡き歌手の「桑名正博」さんの声掛けで、神戸市で一週間泊りがけで、救援物資を運ぶお手伝いをさせて頂きました。
「アンタだけでも逃げなさい! 私のことはもういいから!」
「何言ってんねん!かあさんだけおいてくわけには行かんやろ!私もここに残る!」
とがれきに足を挟まれた身動きできなくなっている義母に、迫りくる火災。嫁に逃げなさいと催促するが、その嫁も一緒に死ぬ決心をしました。しかし寸前のところで火災が収まって二人とも一命を取り留めました。
当時私が、避難所で出会った方から聞いたお話です。
繰り返される自然の猛威を前にすると、何ができるだろうと、ますます自分の非力さを実感しますが、ただただ、人と人との「紡ぎあう気持ち、小さな助け愛」の連続しかないと思います。
合掌
令和六年三月 東照寺第五世住職 釋 巧照
「思行持(しぎょうじ)」
本年も寺族一同宜しくお願い申し上げます。
過ぎてしまえば令和も六年目に突入いたしました。心新たに今年の目標を掲げるとともに、継続することの難しさを実感する今日この頃です。
「~しよう!」と思うことは簡単です。
けれどもそれを「実行しよう!」とすることは難しいことです。
さらに、それを「継続していく!」ことはもっと難しいことです。
仏教ではこれを「思・行・持」の三則と申します。
思うこと・行うこと・維持(継続)することは別々のことで、甘い考えでは到底成し遂げることはできない、という厳しい言葉なのです。
仏教修業は厳しく修行中の僧侶は、仏道を学ぶために、食事、就寝、入浴、掃除など、すべての生活において作法があります。
時には外界からの情報をシャットアウトする為にシマホの使用まで許されません。そのために中途半端な気持ちで仏道修行を始めた人は直ぐに辞めてしまいます。
だから「三日坊主」という言葉が生まれました。
ですが「思うこと・実行すること・継続すること」の難しさを理解するのとしないのとでは、私たちの生活は全然違うものになります。
「お正月には、お仏壇に特別に用意するものはありますか?」とよく聞かれます。
真宗門徒にとりましては、お正月だからといって特段、普段以上のものを用意することはありませんが、お花、お供物をちょっと良いものにし、お鏡餅をお供えし、お供え後はそのお供物やお餅を感謝の気持ちで頂くことです。
それよりも大事なことは、お仏壇をきれいにして新年を迎えることです。
先人は言いました、お仏壇は「心の表れ」であると…。
お仏壇を綺麗にしていくことは、自分の心を綺麗にしていくこと。
誇りがたまっていたら、「こんなに誇りがたまって!」と文句を言うのではなく、「今年一年、お世話になりました。来年もまた、家族の中心にいて下さい。」と頭を下げるつもりできれいにしていくことが大切です。
そうすることで、気持ちの良い新年を迎えることができるでしょう。
さらに、思っていても、なかなか、成し遂げることのできない三日坊主の私たちに「阿弥陀如来」はプレゼントをくださいました。
それは「なむあみだぶつ」とおお念仏申すことです。
これは、いつでも、どこでも、だれにでもできることです。
そうすることで、阿弥陀如来の光明の中に包まれる一年を今年も送ることができます。
合掌
令和六年三月 東照寺第五世住職 釋 巧照
「辛さを転じて・・・」
桜の花が散り、札幌のお踊り公園ではライラックの花が咲き始めました。いよいよ、初夏の香りが漂う季節となりました。
桜もライラックも、北海道の厳しい寒さを経て、必ず春には美しい花を咲かせます。
この美しさは、冬の厳しさをしっかり引き受けて、しっかり大地に根を下ろしてたえるからこそ、色艷やかに私たちを魅了するのです。
私たちは、できることなら、厳しいこと、辛いことを避けて生活したいものです。
けれども、時にはどうしても避けようのない「辛(しん)」を経験することがあります。そんな時は、現実逃避をしたくなるものです。
しかし、「辛」なくして、彩る人生はありえません。人はしんどい時期を体得して人生に深みが増すのです。
辛かったり、苦い経験をするからこそ、幸せな甘さを味わうことが出来ます。
人生には、光と影、表と裏、入口と出口があります。両方あるから人生に彩りの花を咲かすことができるのです。
「親鸞聖人」は、平安末期の激動の世に生まれ、厳しい世の中を生きる方々に、幸せを導いてくれました。
厳しさの中で美しく咲く花には、太陽、空気、土などが必要なように、人にも縁(えん)というつながりが必要というこを・・・
先日、札幌の地下鉄で、駅のホームに心肺停止して転落した肩を助けようと、見ず知らずの5人の方が、見事な連携で、その方の
命を救った、というニュースがありました。
転落した方の命と、その場にいた5人の命があったからこそのつながりです。私たちは、多くの人と関わりながら生きています。その関わりは、血を分けた両親や家族、親しい友人というとことにとどまるものではないのです。
私たちの気がつかないところで、すべての命と関わりあい、支えあっています。
私たちは、目に見えない縁によってつながっているのです。私一人ではないのです。私にとって関係のない人なんていません。
そう思える様になると、今まで「踏みつけていた大地」が「支えてくれる大地」だったと心が転じていくのです。
合掌・礼拝も、みんなが幸せになりますように、と念(ねん)じながらすると、自分以外の他の人が、自分のために手を合わせてくれるととになります。
誰かのためにすることで、他の人とつながっていくこともできます。その合掌する心に孤独はありません。
目に見ることの出来ない相手を思いやる気持ち、優しい絆・・・。
「辛」の字に一本文字を足すと、「幸」に転じます。この一本の文字こそ私たちの「合掌の姿」なのです。
平成二十七年 五月 東照寺住職 黒龍巧照